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2008年08月02日

8月2日 時 (3)。。。



「そろそろ帰ろうか。」
俺は周りの職人へ声を掛ける。その音色が職人の耳に届きしばらくは旋盤のチャックは
相変わらず高速で回転していたが1台、2台と止まり始める。
既に時計の針は夜の11時を指している。
その時刻が既に就業規則の定時の終了時間のような毎日だ。

俺は独立すると中古ながら何台か旋盤を買い、そしてお買い得だと勧められた
手狭になり出て行って間もないという町工場も手に入れる。
その元手は俺のつたない貯金と妻の親父さんからの借金だ。
他にも金融公庫からも借りた。しかし、借金の返済は何ら不安、心配はなかった。
その当時日本は高度成長期の真っ只中で仕事は次々に舞い込んで来た。





独立して最初に仕事をくれたのが何と最後に辞めたあの町工場の親父さんだ。
俺が独り立ちするのを必死に反対しながらもいざ町工場経営を始めると
せっせと仕事を持ってきた。
馬が合ったのだろうか。この親父さんとは亡くなるまで付き合いが続いた。
だが、肝心の儲けは薄かった。孫請けなのだから仕方がない。

俺が買い込んだ工場の周りは同じような鉄工所、町工場が立ち並んでいた。
今では想像だにできないがかなりの大きな範囲で一つの町工場街を形成していた。
独立当初の仕事は付近の工場からも譲ってもらった。
当時どこの鉄工所も猫の手を借りたいほど忙しく納期までの納品が常に頭痛の種で
どしどし他の近くの工場へ仕事を出していた。

そのため独り立ち当初から忙しかった。俺は妻を手伝わせ必死に仕俺一人事をこなしていたが
もちろん手が回らなくなり職人を何人も雇った。それもまだまだ若い人物を雇った。
俺も青二才な年頃であったがやはり若さは熟練の技術を漲る体力で長い時間働くことにより
補った。連日の夜遅くまでの残業そして日曜など休まず働く月もあった。
それは俺の工場だけでなく周りも夜遅くまで電燈はついており、日曜日も旋盤が
回る音はあちこちから聞こえた。

所詮孫請けだ。下請けの鉄工所から仕事をもらうのであれば当然孫請けに過ぎない。
利益は薄い。いくら残業、休みなしで働こうと儲けは少ない。
俺は考えた。これでは想像した以上に借金を返す日は遅くなる。
妻の親父さんの分だけでも早く返済したい。

俺は外回りに出る。直接地場の大手の工場へ出掛けた。
周りの工場の親父から情報は仕入れた。それを頼りに何件かの工場へ出向いた。
どこも何の抵抗もなく担当者と面会できた。
それだけ大手の工場も生産が間に合っていないのだ。
現在では門前払いであろう飛び込み訪問で面会する度にその担当者からいずれも注文をもらった。

大手からの直接の下請けの仕事だ。当然今までよりも単価は高くなった。
作る量も増えそれに伴い機械、人間が必要になる。
人を雇いそしてその人数分だけ機械を買い与えた。
しかし、昔からそうだが作る度にコストダウンを叫ばれる。
作れば作るほど単価の要求は厳しくなる。確かに大量に作れば工場コストは下がる。
安価要請はきりがない。いたちごっこだ。だが、周りにはいくらでも町工場はあり競争がある。
コストダウン要求を跳ね除ければ他社に仕事は回される。
そのためその儲けは次の刷新された生産性の上がる機械へと回す。
機械の生産性を上げコストダウンをこなそうとする。
現実には仕事をこなせばこなすほどその儲かった財産は機械代へと消えるだけだった。

俺は考えた。次なる機械を買う為に寝る間を惜しんで働く現状をなんとか打破したい。
その方法は理由は不明だが向こうからやって来た。。。




え~っと。次回へと続けてもよかでしょうか。。。




それでは又です。


読破。
「夜を賭けて」梁石日著
 全く知らなかった戦後間もない在日の人々の生活のすさまじさ。
 日本のアウシュビッツ。大村収容所の日本人の弱い者いじめ人種差別のむごたらしさ。
 現実にこういう時代があったのだ。

「皆月」花村萬月著
 花村氏の相変わらずの哀愁が満載のお話。
 この作者特有の男女が交わる場面は多いですが私は堪能させて頂いた。
 もちろん「哀」という一文字を。 


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2008.8.2by 博多の森と山ちゃん



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