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10月4日 使い捨てカイロから地磁気まで(1)



やはり個人一人の力とは微々たるなのか。
一人の力はどうせ多勢に無勢なのか。

多大なる組織対して小さき者は既にその存在すらも亡き者とされるのか。
弱き者。その者は常に否定され続け、強き者から常に白き目で見られるのか。

ではその弱いという定義は一体何なのか。
誰しもこの地球と言う奇跡の星に生まれてきた人である。
人は誰しもたった一人では生きていけない。
そのため他の動物とは異なり人間と言う表現ができるのである。

そして社会的判断。客観的判断と言う言葉を使用しても良いだろうか。
同じ人間がそれぞれの地位を決定しそしてその立場において人間そのものの価値を判断する。
果たしてそこに疑問符が付き纏うのが客観的と言う表現であろう。

その客観的と言う言葉は特定の立場に立たないで物事を判断する事であろう。
しかし、厳密に考えるならば逆の言葉である主観的との差異は果たしてあるのか。

客観的とは特定の立場に鑑みる事無しにとなるが実際、現実にはその立場とはありうるのか。
立場とはその立たされた時間そして空間において変化するものでありそして当然それが
自然と言えるであろう。

人は努力する。
その努力の理由としてもしかしたらより強き者ヘと自分自身を変化させようとしているのであれば。
ひたすら人と比較しそして決して社会的立場において強き者ヘと栄達する事のみに
力を注ぐのであれば、それはやはり自然と言う2文字を使うべきなのか。

それでは一体強き者と弱き者。
いずれも同じ人でありそして同じ人間である。
さすれば、一体その判断はどんな人物がするのだろうか。
いやすべきなのだろうか。

人が人を判断する。価値を決める。
そこにどうしても必要な条件として競争という言葉が生み出される。
しかしだ。
一体人とは他人を比較しそして地位を決定しうる事はできるのであろうか。

しかし、現実には行われているし、又行わない限り社会は存在し得ないであろう。

競争と自由。
この自由とは決して解放とは異なり常に不安と悩みを抱え込むことが必然であろうか。
ついぞ常に悩む事こそが生きている証であるのは間違いないようだ。

しかしながら、弱者なら弱者の生きる道そしてそれが身分相応と言う言葉に結論付けられるとしても
私は決して否定できないことが今さらながら強く感じたことをここで記しておく。


ついぞ巨大なる組織の力に立ち向かう事こそがその弱者にとっては身分不相応なのだと
身に染みて感じ入っている今日この頃ですたい。




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昨日のエントリーで酸化について書いた。

酸化とは化学反応であるとも書いた。

では一体化学反応とは何か。
簡単に書けばものの原子の配置替えと書ける。
原子間での結合、決別、そしてあるものの形成などであろう。

しかし、その化学反応とは人間の目ではなかなか見ることはできない。
では化学反応が実際起きたかどうかの判断はどうすべきか。

その化学反応が起こったかどうかの判断できる内容を下記に書いておく。
しかし、他にもあるだろうか。

1.沈殿。
2.何らかの気体の発生。
3.色が変化する。
4.熱の発生もしくは熱が吸収される。

あくまでも人間には見えないのが化学反応である。
しかしこの目に見えない反応は科学の進歩に欠かせないものであるようだ。
化学反応だけの科学の分野が「化学」「ばけ学」と定義されていることからも
容易に判断できる。


上記化学反応の結果として書いた内容で酸化についてもう少々書きたい。
先ず題目にも掲げた使い捨てカイロ。

使い捨てカイロは鉄の酸化という化学反応の際に発する熱を利用しているのは
ご存知の通りでして。
実は鉄は酸化、錆びる際熱を発生する。

では錆びた鉄を触って果たして熱いのか。
答えはNOだ。
それは確かに鉄は酸化する際、熱を発している。
しかし、人間の皮膚には熱いとは感じないくらいゆっくりとそして徐々に熱を発している
らしい。

ではその酸化鉄を利用している使い捨てカイロは何故暖かいのか。
その原因は鉄を酸化させる速度にある。

急激に酸化させればそれだけ高い温度で発熱する。

そのため使い捨てカイロには鉄の粉の他にたくさんの成分が含まれている。
その成分の含ませ方にも様々な工夫がなされている。

酸化を早めるため、水、塩。
そして鉄の粉べとつかせないために、水は木の粉に含ませてある。

使い捨てカイロは密閉され決して酸素が入らないようになっている。
そして使用時に袋は開封され急激に酸化されることによりホッカホッカカイロになるということだ。

今回の内容は皆さんもよくご存知の通りでして。
次回もその酸化より話を進めていくとです。



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最近ことさら組織の大きさの違いによる社会的立場の段差が私の体にひしひしと
鞭を入れるのです。

その大きな組織に立ち向かう事こそが間違いと言うことは十二分に今までの経験そして
体験により熟知しているつもりです。

これについては、自分自身で大きな組織を形成しそして戦いを挑めばと言う意見は
確かに存在します。
その意見はそれぞれの人間の能力が多分に影響しているものであろうし
現実的にはことさら具体性に欠けると思っています。

社会的立場だけを鑑みれば確かに小さな企業がより多く集まり組織と名のつくものを
形成する。そしてできうる限り大きなものを作りうるならばそれも一つの道かも知れません。

今現在我が町工場はそういう組織のなかの一員ではなくそして私はその組織の一員に
なるべく力を注ぐ事に対しては何かしら体が前に進まないようです。

さすればやはり弱者なりの戦術そして戦略が必要なのは切迫感を持って自覚しています。

大きな組織も実は個々の個人の集まりであるのは間違いないのですが。
しかし、その組織の中での立場が歴然と存在するし、又その立場であるこそが
その個人の仕事の力量を常に問われているのは間違いありません。

その組織の名前こそが社会的強者としてのプライドでありその名前の背中に背負って
動く事が使命であると言えます。
翻ってみると各個人の考え意見がどれほど自由に反映できるかと言うとそれに対しては
決して肯定的な回答を示すことができないのは外からも十二分に感じ取れます。
それだからこそ、零細企業である弱者は確かに個人の声だとしてもその人物の背中にある
巨大な組織の会社のプライドに日頃恐怖すら覚えているものです。

これからも大きな強者はより一層大きなプライドを持てる強者へとなり得るし
そして弱者はより一層それとは逆の方向へと流されてしまうのではないかという一抹の
不安が大きくなりこそすれ決して小さくならないという社会へ向かっているのは事実では
ないでしょうか。


さすれば弱者である事を自分自身が十二分にそして明確に自覚し、それから向かうのではなく
その立場での自分探しを戦略と戦術という言葉で行わなければいけないようだとの感を
ひとしを胸に抱く今日この頃です。
小さければ小さい会社こそその会社の代表者の性格そのものが表現されていることに
ついぞひとしおの感慨を自覚せねばとの心意気を出すべきでしょう。

ものづくりの情熱。
持つ事より継続することがどれだけ困難であるのか。
そこにも答えの一つがあるような気がしてならんとです。


それでは又です。





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2006.10.4by 博多の森と山ちゃん





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